【重度訪問介護】これからヘルパーになろうとしている方へ
2023/12/19
重度訪問介護とは、一体どんなお仕事なのか。
かなり偏った個人的な振り返りをしてみようと思います。
重度訪問介護とは、
「自分の人生を。家族のあり方を。命を。問い続ける生きた学問であり、今を一生懸命に生き抜く生き様と死に様と必死に向き合う仕事である」
これは現段階での価値観ですので、数年後には変わっていると思います。
10数年、ALSの方の生活に関わらさせていただいてきて感じたこと。
兎にも角にも、自分の至らなさである。
完璧なケアを目指しても目指しても、その一瞬一瞬に及第点があったとしても、刻一刻と変わる心身状態の変化にどれだけ柔軟に対応し続けていくか。
時に、自身の感情が邪魔をして、優しく在りたいと心がけてもついついイライラしてしまうこともある。
そんな時は、常に反省会だ。
というよりも、後悔しかない。
介護という仕事は、葛藤の連続だ。
葛藤と向き合い、時に逃げ出し、時に挑み、自分なりの答えを出し続けた者が、病みつきになる仕事だ。
完璧とはほど遠く、不完全ながらも愛を追求するかのようだ。
見守りから、外出・旅行、数秒ごと・数ミリ単位の対応と、簡単なものから経験が求められるケアと幅広いこともこの仕事の特徴なのだろう。
一般的な介護といえば、オムツ交換や着替えなどがイメージされると思います。
それらは介護をするにあたり必要なことであって、専門職であればできて当たり前の領域です。
大事なのは、その先。
通常ケアをした先にある何かを実現していくこと。その一助となること。
最近、クリスマスコンサートに行きました。
お客さんは120名。
お子さんから高齢者まで幅広く、クリスマス仕様に彩られた体育館で音楽が響く。
僕はその方の演奏を聴くことはできなかったのだけれども、指揮者としての背中を見ることができた。
その方を中心に中心に半楕円のように各演奏者が位置取る。
指揮者の視界におさまる位置取りのようだ。
演奏が始まるのだが、その方は腕を振らない。
いや。振れないのだ。
その方の指揮は、目と瞬きと表情だったのだ。
その時は、自発呼吸だけでは心許なかったのか、呼吸器を装着している。
そう。この方はALS(難病)と闘いながら見事にコンサートをやりきったのだ。
思えば1ヶ月ほど前から、夜の睡眠が浅くなりはじめた。
日中も何時間も何時間も部屋に篭り切って練習の鬼と化した。
「足が上手く動かないのが怖い」
文字盤で言われた。
「勾玉のように動かせたらいい音が出る」
「指をそらして欲しい」
「足首が硬い」
「眠るの下手かも」
「お願いだから怒らないでください」
「どうしてそんなにおしっこにこだわるの」
夜眠る頃には、足が浮腫んでパンパンになっている。
夜間の間に、いくらか軽減できるように努めた。
無意識で本人の意図していない鳴り続けるコール音は、僕の心を蝕む。
つい、イライラしてそのままの態度で文字盤をしてしまう。
朝、本人が起きる頃には懺悔の嵐だ。
なんでもっと優しくできないかな。
そして、コンサート当日、いつもと違う黒いスーツっぽい格好をした彼の背中は、とても遠く、でもとても大きく、そして輝いていた。
「神は降りなかった」
とても満足のいく演奏ではなかったらしい。
現実はドラマのようにハッピーエンドではない。
だが、彼の生き様はとても言葉で表せるものではない。
病気となり、全盛期の頃のように演奏できなくなり、それでも、できる方法を編み出し演奏を音楽を続けている。奪われることの方が多かったはずだ、
でも彼は笑うのだ。笑顔を向けてくれるのだ。
「来年は奥さんと見に来て欲しい」と。
僕らの仕事とは何なのか。
自身の些細な感情すらコントロールできないことが恥ずかしい。
重度訪問介護という仕事が、何のためにあるものなのか。
障がいや難病があったとしても、生きることを諦めない。
それでも、自分の人生を生き抜く。
その人生にほんの少しでも関われることが、尊い。本当に尊い。
共に生きるということが、この仕事なのだろうか。
これからも、問い続けていきたい。